みんなの地球の会 命日

今日は HY先生の命日です。 初演からずっと作曲と歌唱指導をしてくれた HY先生。 私たちの劇のために60曲も作曲してくれて、毎週歌の指導をしてくれました。 3年前、6月の公演の2ヶ月前に、49歳の誕生日を待たずに、癌で急逝されました。  亡くなる10日前も、歌の指導に来てくださっていたのに。 具合が悪そうだったけれど、大したことないよと言っていた先生の言葉を疑わなかった。 すぐに元気になられて、一緒に劇を創っていけると信じていました。
先生は最期まで、まだ出来てない曲があるからと、起きて作曲しようとなさったそうです。 そして、ご自分のお葬式で、6月公演のチラシを配るようにと私たちに言い残していかれました。
私たち劇の仲間が進行を任されたお別れの会(お通夜)には600人が参列、翌日の告別式も、先生の急逝を惜しむ人々が会場から溢れ、私たちは2日間、泣き泣きチラシを配りました。
この劇 『タイムカプセル』のために先生が作曲してくれた10曲の中の「レモン色の青春」は、先生が最後に作曲してくれた歌です。 1番は私がソロで歌うので、皆は「歌ちゃんが泣いちゃって歌えなかったら、みんなで前へ出て行って一緒に歌おう」と決めていたんだと後で聞きました。 私のHNの歌子は、この時の劇の役の名前 「宇多田歌子」からつけたものです。
8月の毎年恒例の合宿をかねて花巻市へ行き、賢治祭で、宮沢賢治の作品を劇にしたものを演じました。 初演から脚本と演技指導を手がけてくださったT先生が脚本を書き、SE(効果音)も全て賢治の作曲した曲を用い、また歌詞をつけて劇中で歌います。 HY先生が編曲することになっていて、『タイムカプセル』が終わったら、その編曲に取り掛かることを楽しみにしていたのです。
その年の12月、追悼コンサートをしました。 合唱指導者がいなくなったのに、コンサートをするという無謀さ。 60曲の中から15曲に絞るのが大変、どの歌も歌いたくて。 でも歌を減らして、ゲストを6人お呼びして先生との思い出を語ってもらいました。 都内から、秩父から、遠い方は島根県から来てくださって、どの方のお話も、胸を打つ良いお話でした。 ほんとうにあったかい良いコンサートになり、来てくれた方々も感動してくださって嬉しかったです。 そのコンサートを聴きに来てくれた方の中に、大学でHY先生と同じ作曲ゼミだったN先生がいらして、コンサートの後、地球の会に入会してくださったのです。 作曲家のいなくなってしまった地球の会を心配して、HY先生が天国から呼んでくれたとしか思えませんでした。
追悼文集は、本当はコンサートに間に合わせたかったのですが、それよりも内容を充実させたいと、先生が亡くなって1年目の4月に出来上がりました。 みんなの先生への想いが詰まっている文集で、今でも時々手にとっています。
文集が完成した時は、ひどく気が抜けてしまって、もう全て終わったような気さえしました。 いつもは、1年以上かけて準備して、年に1度、公演をしているのですが、先生が亡くなってからの1年間は、『タイムカプセル』の公演、花巻公演、追悼コンサート、追悼文集を出版と、それこそ夢中で突っ走ってきたのです。 6月に公演の『見沼田圃のおくりもの』の練習もしていました。
去年の5月は、花巻公演では一部分しか演じなかったT先生の脚本の全部を 『神の創りし子ら』と題して上演しました。
そして今年、『見沼田圃のおくりもの』までの4作を書いたSさんが、諸事情から台本を書かないと言うので、今年の6月公演の劇は、私が脚本を書きました。 追悼コンサートの台本、教会の聖劇、幼稚園のお別れ会などで演じる童話を劇にしたもの等の台本は今までもいくつか書きましたが、本格的な劇の脚本を書くのは初めてです。 題は 『いのちのステップ』 今までにも何度か書きましたが、頭を打つ大怪我をして、生死をさまよった会の仲間が、3度の手術、3ヶ月の入院の後、リハビリを続けながら奇跡的に職場復帰した体験を中心に、命の大切さ、生きる喜び、人間賛歌を訴えたいと思っています。 来てくださるお客様方に、私の本でどれだけの感動、共感、楽しさを味わっていただけるか… 期待と不安が入り混じります。
今日の練習で、やっと全ての場の立ち稽古を一通り出来ました。 それにしても後2ヶ月、練習時間が足りません。 今週末は強化合宿で、朝9時から夜の9時まで練習します。 毎年、この合宿で何とか先が見えてくるのですが、例年は二泊三日でやっているのに、今年は一泊二日になってしまったので、どこまで詰められるか… とにかく、いいものにしたいです。