Sさん(敗戦当時小学校3年生・女性)

敗戦間近の4月に、浦和の県庁のそばに焼夷弾が落ちて、囚人が解放されたので、何が起こるか分からなくて怖かった。しっかり戸締りをして寝た。
小学校3年生で、ちょうど九九を習っていたので、空襲警報が出ると、「ににんがし、にさんがろく・・・」と九九を唱えながら防空壕へ行き、終わるとまた「ににんがし・・・」と言いながら戻って来た。
ある時、B29が、いらなくなった空のガソリンタンクを落としていった。空から大きな黒いものが仲本小学校の運動場に落ちたので、私たちはもう死ぬんだと思って、頭を抱えてうずくまった。いつまでたっても爆発しないので、恐る恐るそばによってみたら、飛行機のガソリンタンクだった。
8月15日は、すごく天気のいい日で、学校は休みだったので、家でラジオを聞いた。父と母が前に座って泣いていた。私は、天皇陛下の声だとはわかったが、両親がなぜ泣いているのか分からなかった。戦争が終わってよかったという思いよりも、見知らぬ外国人が入ってくるという恐怖の方が大きかった。女はボウズになった方が良いと言われ、アメリカ兵が来たらどうしようと思った。
戦争が終わると、食べ物がなくなった。お弁当を持っていけないので、昼休みになると水道の水を飲んでは、みなで馬飛びをした。お弁当を持って来られない子がたくさんいたので、寂しいとは思わなかった。ある日、母が私に白いきれいな着物を見せて、「おまえに着せようと思って、花嫁衣裳を縫ってあったんだけれど、お米に替えるしかないねえ。持っていく前に、おまえに一目見せておいてやりたかったんだよ」と言った。それは鶴だの松だのがついた、古くさい柄だったんだろうけど、私の目には、素晴らしい錦に見えた。母はその着物をたたんで、お百姓さんの家へ持っていった。母は、お米一升と替えたかったが、お百姓さんは、五合しか駄目だと言う。その日は父もついてきていたが、母が交渉している間、父は薄暗い土間の隅にいて、黙って座っているだけだった。私は、あのきれいな着物が、たった五合のお米になってしまうのに、お父さんはなんで何も言わないんだろうと思った。結局、お米は五合だけだったが、家へ帰ると、父が懐から、さつまいもや、じゃがいもをごろごろ出してきた。さっき母たちが交渉している間、父は土間にころがっていたお芋を懐に入れていたのだ。今 考えれば、それは盗んだことになるのだけれど、そのとき私は、「さすがにお父さんはすごい!」と思った。
とにかく物がない時で、クラスに一足だけ配給になった運動靴が、くじ引きで私に当たったことがあった。みんな、いいね、いいね、と羨ましがって、一人の子は、「見て、私の靴、こんなにボロボロなの」と言った。見ると、私のよりはるかにボロボロなので、「ほんとだねえ」と、くじ引きで当たった権利をその子にあげてしまった。家に帰って母に話したら、「おまえの靴だってこんなにボロボロなのに」とひどく叱られた。